『認知症家族の介護について』(ボケを一緒に楽しむ)。
今のことは忘れるけど昔のことはよく覚えているんだよね~不思議だよね~と言うけど当たり前のことです。私たちだって、 昔の若いときの印象的な記憶は誰だっていつまでも覚えています。ただ認知症は今のことを覚えられないからどうして昔のことは…と勝手に私たちが思っているだけです。
「どうしていつもオムツを洗濯機で洗うんだよー」 「オムツ中のポリマー樹脂が溢れ出てポリマー祭りになるんだよー」「だって汚れたから綺麗にしようと思って」 「大変なのにいつもお前に洗わせてばかりで悪いからと思って…」そうだよね…この家に嫁に来て姑の介護を10年やって毎日布おむつを洗っていたんだよね。大変だったよね。
あえて「介護しない介護」「無知の姿勢」介護には何もしない介護もあると思います。「介護しない介護」「あえて手を出さない」「本人ができるように促し声かけをする」「見守りに徹する」という介護も実際に現場ではあります。他人から見ると何もしていないと思われるのでしょうね。これは「待つ介護」という介護業務なんですけどね。
「本人を輝かせて自分も輝く介護」介護は楽しいのです。日々の介護の積み重ねの中にも小さな奇跡を見つけることがあります。本人(認知症の母)が輝いて見えることがある。そんなとき逆に自分が勇気を頂いて自分も輝かせて貰えるんです。母親が言った「ボケて何もわからなくなってしまった。私は何か悪いことをしたのかなあ」認知症は神様のバツではないですよ。ボケても幸せに暮すことはできると教えてくれているのです。
介護は「辛い、苦しい、汚い、危険、良くならない」という介護の当たり前を私はぶち破りたい。「自宅で無理なら施設しかない。寝たきりでも仕方ない。ボケてるから何しても仕方ない」このような当たり前は「老いたらもう終わり」という諦めから生じている。このような意識の持ち様では介護に従事する新規採用者はいても離職者は減らず永遠に介護人材不足は続くだろう。介護は心の持ちようで楽しくもなるしやりがいもあるのです。介護を楽しむという意識を持つことで普段の介護生活が変わり周りの見える世界が変わることもある。そして介護者される側と介護する側の両者の生き方も変わってくるのである。
これからの介護は一人ではできません、家族ぐるみでもできません、地域社会という枠組みの中で家族介護も行っていく必要があります。当然に賛否両論はありますが、地域でまずは自分を知ってもらう、自分をさらけ出す、その方が絶対に地域で生活しやすいはずです、地域での自分の居場所、役割、生きがいを見いだしてほしい。私は地域で福祉のなんでも屋、虹の架け橋になりたいと思っています。人と人、人と社会、支援を必要としている人とお手伝いができる人を繋ぐ架け橋、支え合いのきっかけ作り、繋がりあう場所の提供ができればと思って、日々地道にコツコツと泥臭く活動を続けています。マインドが浸透するには時間がかかります。地域が福祉の理解認識力を高めて、障がいがある方等を受け入れる体制つくり、理屈で納得していただくことは難しい、でも頑張ります。
私は「認知症は治らない」の考えに疑問を呈します。私が経験した感覚で言わせていただくと、以前と比べて認知症状が改善した方がいます。認知症は早期発見・早期治療が大切であるとよく言われます。また、認知症になると進行を遅らせることはあっても症状が改善することはまずないと言われます。認知症の原因や症状は人それぞれ違いますので、一概には言えませんが、「認知症は治らなくて改善する余地はある」と考えます。確かに、高齢になればなるほど認知症の発症割合は増加して、認知症は加齢とともに進行し酷くなるばかりとも言います。でも、完全に治ることはありえませんが、認知症状が低減したり良い方向に改善することはあると思います。科学的根拠やデータは何もありませんので強くは言えませんが、私が経験した感覚で言わせていただくと、以前と比べて…認知症状が改善した方がいます。脳の神秘は私たちが到底解明できるものではありません。老いても脳は進化すると信じたい。
「性格が明るくなった」「前向きにものごとを考えるようになった」「自己肯定するようになった」「布団から起きて活動するようになった」「忘れていた家事をするようになった」「天気のいい日は散歩に出かけるようになった」「笑顔が増えて人と話すようになった」「尿失禁が減ってトイレに行くようになった」「何度も同じ事を聞かなくなった」「今日のことを思い出そうと努力するようになった」「自分からメモをとるようになった」「学習意欲がでてきて行けなくて悔いが残る高校に行きたいと言い始めた」
はたして、認知症になるともうダメなのでしょうか?認知症の親を介護する家族は大変で辛く耐えられない日々を過ごさなければいけないのでしょうか?家族が認知症になっても、認知症の親を介護するようになっても、私たちが毎日楽しく幸せに今を一生懸命に生きることに何ら変わりはありません。認知症は神様のバツではないですよ。ボケても幸せに暮らせることを教えてくれるプレゼントです。
ボケると嫌なことは忘れてしまって楽しいだけの人生になるようです。そもそも自分に都合の悪いことは健全な生命活動にとって害だから忘れるようになっているらしい。ボケると人間の感情的な部分が表に出やすく本能の素の部分が活きはじめるから純粋だった子供のようになってかわいい。過去のことを忘れてしまうからある意味毎日が新しい発見の連続でワクワクするみたいです。誰しも自分の親が長生きになったから、あたりまえのように子供は認知症の親を介護する機会に遭遇する時代となりました。
訳のわからないことを言ったら、こちらもふざけて訳のわからないことを言い返しましょう、そうすればなにを言っているのだ?、ボケの上をいく突き抜けた大ボケを言います。するともういいよ!って笑って済んでしまいます。信頼関係があれば自然と笑顔が生まれます。
何度も同じことを聞いてきます、ほんとうにうんざりしますが、こう聞かれたらこう答えるという定番を作っておけば、その都度考えていちいち答える必要もなく苦ではなくなります、例えば、何回答えても、「どこに行くんだい?何時に帰ってくるんだい?」って聞かれるのでいつも同じ答えを言っています。「天国に行ってくるから帰りは神様次第だよ」。こんなふうにとぼけた返事を言ってるのに毎回初めて聞いたかのように、「あーそうかい!」と納得してくれます。
意味がわからなくても認知症の方の言動にはすべて理由があります。他の人にとったら意味のわからない不可解な言動でも、本人にとったら常に本気で大真面目で当たり前の言動をしているだけなのです。そのことに少しでも気づけてわかってあげられたなら認知症状を納得できたりします。【お金はあるかい?お小遣いあげようか?寒くないかい?服を買ってあげようか?ご飯は食べたかい?卵を焼こうか?車に気をつけるんだよ!早く帰ってくるんだよ!彼女はできたかい?】。もう自分では何もできないのに子供を気遣ってくれます。何歳になっても親は親ですね。
認知症の方に必要となる日常的なお世話の手間は介護の専門家がいます。惜しみなく介護保険サービス等を利用して楽をしましょう。また、財産管理や身の回りの手続きなどは後見人に任せる方法もあります。使えるものは使って自分自身の人生を楽しみましょう。介護のために自分のプライベートを犠牲にしたり仕事を辞めたりなんて絶対にしたくありません。
認知症を介護する方は、「ボケを一緒に楽しむ」「自分もいつかはボケる」「自分がボケたときの予行練習だ」、このくらいの視点で認知症家族に接することができたら、少しは精神的負担が軽くなるのではないかと思います。今の段階ではあまりにも理想的で幻想的な話ですが…、認知症の程度が軽くても重くても、認知症家族が介護に向き合うときの意識「ボケを一緒に楽しむ」は、非常に大切なキーワードであると思います。私は、ボケを楽しみだしたら認知症介護の負担が軽くなったように感じます。私は「ボケの上をいく突き抜けた大ボケ」を目指しています。
認知症介護は「大変、つらい、わからない」と考えがちです。年齢を重ねれば誰でもボケてくるし不自由なことが増えます。「できないこと」ではなくて、「できること」「やりたいこと」に視点をあてて、寄り添い共に歩む介護を考えてみませんか。本人と一緒に「ボケを楽しみましょう」。自分もいつかはボケるかもしれません。その予行練習ですよ。
介護はその人の生活を支援すること、その人の人生を想うことです。
高齢になっても、障がいがあっても、「行きたい場所」が必ずあるはずです。そんな時「どこに行こうかな」「どうやっていこうかな」、こんな事を考えている時間はとても充実します。叶えたい想いや未来に楽しみがあると気持ちの持ち様が変わります。気持ちが前向きになると生活が変わります。みなさまと一緒にそんな時間を共有できたら幸いです。リハビリをしてから温泉に行くのでななく「温泉が最高のリハビリ」になるはずです。
認知症介護は一人で悩まず相談してみてください。何か力になれるかもしれません。